2週間ほどまえ、教会の方から電話がかかってきて、聖霊降臨日の催しとしてネパール語で聖書を朗読してほしいという依頼を受けました。でも話を聞いていると、ネパール語聖書を自分で用意してほしいというのです。そんなの無理ですよ。断ろうかなと思っていたら、主人が出てきて受話器を受けとり、事情を説明して、教会の方で原稿を手配してもらえるように話をつけてくれました。おかげでネパール語聖書を教会関係のボランティア活動をネパールでなさっている方から拝借することができ、聖霊降臨日当日となりました。主人は箱根で行われる登山マラソンに出場するため、(クリスチャンなのに)礼拝には出席せず、(クリスチャンではないはずの)わたしは息子を連れて主人の両親と一緒に礼拝に向かいました。うーん。何やってるんだろう、わたし。
 そもそもどうして聖霊降臨日にネパール語で聖書を読む必要があるのか?それは、どうやら、聖書に「五旬節の日、使徒たちに聖霊が降臨し、彼らは口々に異国の言葉を話し始めた」という記述があるからなんですね。この五旬節の日が、その後聖霊降臨日とされるようになったようです。
 しかしネパール語を読むのはいいとしても、人前で何かをするというのがからきしダメなわたしです。意を決して壇上に立ち、「ペリタカ カームコ ドゥイ アデャーイェ エク バタ、、、(使徒言行録より第2章1節から、、、)」と始めたのはいいんですが、一番前の席で様子を見守っていた息子が半泣きの声で「おかーさーん、おかーさーん」といい始めるじゃありませんか、、、。声の調子から察するに、自分の母親が突然前に出て低い声でわけのわからないことをべらべら話し始めたのが怖くなったらしい。かわいそうに、とは思うんですが、顔をあげて微笑んであげることもままなりません。顔をあげたら自分が読んでいる箇所がわからなくなるのが必定だったからです。とほほ。朗読がすんで席に戻ると、おびえきった息子がすぐに寄ってきてしがみついてきました。ごめんね、怖かったの?ときくと顔をうずめたままうなずいていました。そりゃそうですよね。子供って母親が自分と目を合わさないだけでも不安になりますもの。ごめんよ、あがり症の母親で、、、。
 礼拝後、ネパール語朗読がそれなりに受けたらしく、いろんな方から声をかけていただきました。後日、義母から聞いた話では、この件によって教会内でのわたしの株は急に上がったんだそうです。お借りしていたネパール語聖書は、持ち主の方が「記念にさしあげます」とおっしゃってくださったので、ありがたく頂戴しました。
 今回の件は「これを機にネパール語をやり直しなさい」という神の啓示なんでしょうかね。せっかくネパール語聖書もいただいたことだし、しばらくはこれを使ってネパール語を精読してみますよ。